先日は筑後川の地元と上流の日田で川開きが行われた。花火やお祭り、縁日が出るくらいで、その時期から鵜飼などの観光が本格化する。自分ではなかなか地元でも足を運ばないので、青年会議所の集まりで1回、あとはホームステイでハワイからきた付添いの先生を案内した位だ。木材にゆかりのある場所だと比較的鵜飼は多いように思える。嘔吐をさせられる鳥に若干同情してしまうので、何とも言えない部分もあるが。

川というのは木材流通の地政学的には大きな役割がある。輸送が人力メインであった時代。河川による水運で丸太を運ぶのは自然な流れであろう。北部九州の丸太の一大集積地は日田である。江戸時代は天領として幕府の直轄地として知られているが、この地域を抑えれば周辺地域の変事にも対応できるという事であろう。周辺の山々から丸太を集めて、地域で製材したり、川流しで有明海の河口は家具で有名な大川がある。宮崎の製材所を訪問しても河川沿い、海沿いに構えている事が多い。日田は10年程前から木材コンビナートが出来たので、大きい木材関連業種は移転を済ませているが。木場、新木場が都心では象徴的だが港町の水運を利用している。現状で丸太を浮かべている港があるかは分からないが、数十年前までには決して珍しいものではなかっただろう。

「筑後川を道として 日田の木流し、筏流し」(渡辺音吉氏)という本がある。自分は図書館で偶然見つけて初めて読んだが、当時の杣や川流しの生活や仕事振りを生き生きとした表現と、日田弁の口語での筆致が非常に印象的であっという間に読んでしまった。見習いの丁稚で杣の食事の世話、川下りや今の材木屋の屋号の刻印(川流しで木材を誤認しないようにするのがルーツだった)、宿の取り方や商売の交渉の仕方など、木材業の歴史としても面白い内容なので、興味のある方は読まれては如何であろう。

筑後川の川下りは1952年(昭和27年)より始まった夜明ダムの建設によって終わりを告げる。このダムの建設中の昭和28年に西日本水害が起こる。当時、久留米に住んでいた祖母が家の中の胸だか腰の高さまで水位が上がってきたという話を聞いたことがある。夜明ダム自体は発電用のダムであったようであったし、一部に丸太を流せる余地を残す話もあったようであるが、当時の関係者は一時金を貰って良しとする雰囲気が大勢であったようだ。戦後でモータリゼーションの波も出てきていたのであろう。残念な気もするが、大雨が出ると、流れた丸太を探しに行くのも川流しの仕事だった。今もし丸太の川流しが残っていたら、風物詩の鵜飼も見れなくなるかもしれない。

水運の後は、陸路トラックと並行して使われたのが鉄道貨車である。福岡県内の材木屋も国鉄や西鉄沿線沿いにあるのはその名残である。宮崎でも山から真っすぐ線路を港まで伸ばしていたりもしたらしい。

2024年問題で木材業界も長距離ドライバーの問題に直面している。細かい取引や少しルートを外れると運べないなどの話も出てきている。便利になり過ぎた、過剰になったサービスの反動が少しづつ出てくるであろう。ジャストインタイムの流通からある程度の在庫を持たないと回らない。ウッドショックで随分考え方が変わるが、在庫、資金繰り、物流など今まで考えなくてもよかった悩みと向き合う。慣れるには少し時間が掛かりそうだ。川下りとまでいかないが、フェリーの活用も始まっている。鉄道貨車輸送などJR辺りも含め少し前の時代に使われた手法を真面目に検討しないといけないのでは無いか、と思ってしまう。